石川啄木と平出修、秋瑾 ―内田弘『啄木と秋瑾 - 啄木歌誕生の真実』を読んで その2
以下、本著の紹介とともに、なぜ、啄木研究家の誰一人、「啄木と秋瑾」との関わりについて察知できなかったのか、したがって浩瀚と言える『石川啄木事典』(おうふう刊・二〇〇一)にも出ていない秋瑾を、啄木は、どうして、どのように知ったのか、というあたりから、筆者の思うところも加えて書き進めてゆきます。
その先に、秋瑾のプロフィルを書きます。
秋瑾(Qiu Jin 1875~1907)は、上記した如く清末の女性革命家。以下『ジャンルジャポニカ』より。
浙江省紹興の生まれで、字をセンキョウといい、競雄と号し、また艦湖女倈とも名のった。一八歳のとき官僚の家に嫁したが、義和団の乱に憤激して家庭をすて、日本に留学して反清革命党員となった。当時の秋瑾は清服をきらって和服を着用し、好んで短刀を身につけ、また革命を鼓吹し女性の自覚を促す文章を書いた。一九〇五年日本政府の出した「清国留学生取締規則」に憤激して帰国、教員をしながら光復会(浙江系革命秘密結社)会員として革命運動に従事した。一九〇七年には革命家徐錫麟とともに武装蜂起を計画し、秋瑾が校長をつとめる大通学堂を根拠地として準備をすすめたが、事が未然に官憲側にもれ、徐錫麟の安徽巡撫暗殺(徐錫麟の役)失敗後まもなく弾圧を受け、秋瑾も処刑された。〈伊東昭雄〉
日本では戦後登場した武田泰淳が著した『秋風秋雨人を愁殺す―秋瑾女子伝』(筑摩書房)によって、その生涯が良く知られることになったと言えます。秋瑾が生まれた紹興は、作家魯迅も生まれた町。魯迅(1881~1936)は、日本に留学したことで自分の生涯の翼を得ました。今は、紹興酒(老酒)と茶の産地としても有名な紹興に赴く人は多くいます。上記した魯迅の記念館には、秋瑾が日本刀(短刀)を構えて立った有名な写真も陳列されています。魯迅と秋瑾とは、日本(日本人)とのつながりが深まっています。
著者内田弘は、啄木は秋瑾を知ったが、その時代、すなわち「赤旗事件」から「大逆事件」へと明治国家権力が、その反対者を徹底的に弾圧してゆく過程において、秋瑾のことは書けないと決めていたと考えます。とはいえ、文学をやる者としては無視しえない以上、表面では隠しながら、しかし、「秋瑾の生命」を伝えていたと考えます。つまり、啄木は秋瑾の名を意図的に隠し、「政治的修辞学的方法」(レトリック)でもって秋瑾の文学作品「詩詞=漢詩」を自らの作品制作において活用したのです。その一つ一つの具体的な照合を多く採用して内田の本著は成立しています。啄木の盟友で、「大逆事件」の被告側弁護士として活躍した平出修が、実は秋瑾の日本留学中に、彼女に極めて近いところに居た事実を、最初に示してゆきましょう。
“大逆事件百年”を迎えて、近年、早逝した「義の弁護士平出修」の評価は日を追って高くなりました。この平出は啄木と同じく与謝野鉄幹・晶子夫妻の「明星」の門下生です。
内田は、平出について、以下の事実を調べました。
① 平出は弁護士であると同時に、明治大学付属学校「経緯学堂」で清国留学生を教えていた。
② その間、文部省が出した通達「清国人留学生取調規制」に留学生が抗議行動を起こしたが、そのリーダーが「実践女学校」の留学生秋瑾である。
③ 上の抗議運動の一環として授業ボイコット運動が起き、平出は「経緯学堂」の教員を退く。
④ 本国に帰った秋瑾が、二年後に斬首された後、「経緯学堂」の正面の「錦輝館」で「秋瑾殉死追悼大会」(一九〇七年九月七日)が開かれる。
⑤ 上に先立ち『秋瑾詩詞』が刊行された。
すなわち秋瑾を中心人物とした一連の事件はすべて平出の住居の極めて近くで起きていました。
平出は、啄木が北海道の新聞社を転々としていた間も住所を知っていました(注2)。平出は「秋瑾殉死追悼大会」に合せて刊行された『秋瑾詩詞』を直ちに啄木に送りました。この秋瑾の詩集を印刷したのは「秀光社」(神田区中猿楽町四番地)。平出修法律事務所の至近距離にありました。また「豊生軒」という牛乳店が近くにあり、ここでは「新聞・雑誌・官報書籍」を自由に閲覧できました。「豊生軒」の店主・藤田四郎は、東京時代からの啄木の知人です。啄木は藤田から「国禁の書」を借用。
平出と啄木は、「明星」の歌会で一緒になって以降、盟友となっていましたから、「秋瑾情報」は、ただちに北海道の地を転々としている啄木に発せられていたと思われます。
上④の「錦輝館」は、明治四十一年(一九〇八)六月二十二日に起きた「赤旗事件」の現場となります。ほぼ一年前に「秋瑾斬首=殉死」(一九〇七年七月十五日)を悼む「秋瑾追悼大会」(一九〇七年九月七日)の現場です。
内田は、この二重の「錦輝館衝撃」が、四度目の上京で東京に暮らす啄木に波及して、この「赤旗事件」の翌日二十三日深夜より、啄木ファンなら周知となっている不意の「短歌爆発」を起こして「歌稿ノート」に短歌を多数制作したと見ます。
啄木自身は、『一握の砂』となってまとまる啄木固有のリアリズム短歌が、なぜ生まれて来たのか、という事情について、社会状況との関わりについて何も言っていません。だから、これまで「啄木書簡集」の、明治四十一年七月七日付、菅原芳子宛書簡に見える、
小生などの考へにては、「明星」に載る歌にても十分の八までは好まぬ歌に候。尤もこれは、主幹与謝野氏の趣向と小生の趣味との相違にも起因する事と存候。今度の明星に載るべき小生の作には(無論全力を尽くしたものでもなく、ふとしたる心地にて作つたのに候へど)随分と露骨な、技巧をあまり用ゐざる心のままのよみ方をいたし候間、御覧下され度候。
また同日付、岩崎正宛書簡、
創作上に置ける僕は、この頃になつて(先月半月許り小説をかけなくて仕方なしに歌など作つた。その煩悶の結果)初めて十分の自信をえた。少し考へる事があるので、当分、小児になつて、或は小児の事を、書くよ。
の、各傍線を付した箇所の「ふとしたる心地にて作った」「小説をかけなくて仕方なしに歌など作った」から、文字通り受け取った評者・研究者の意見が主となっていました。
小説家を目指して挫折したことでもあり、そこで、「明星派の強い影響下にあった明治四十一年と四十二年の象徴的な作風を離れて、明治四十三年の現実的な作風を主とした、いわゆる啄木調短歌を中心に『一握の砂』が編集された」(岩城之徳)と客観的・外部から啄木の歌の、「この時期の歌の変化」を捕らえるばかりで、啄木その人の内面の激震を捕らえた研究はありませんでした。
しかし内田は、上の菅原芳子記の次便(七月二十一日付)に、
明星の歌は今第二の革命時代に逢着したるものの如く候。
と書いて、自分は今、新しい歌の世界に参入したことを告げていること、また、この時期の啄木の精神的高揚は「啄木日記」の明治四十一年六月二四日の個所で、次に引く既に周知である、興奮して眠らずに書いた部分を、注意深く吟味することが肝要だとします。
昨夜枕についてから歌を作り初めたが、興が刻一刻に熾んになつて来て、遂々徹夜。夜があけて、本妙寺の墓地を散策して来た。たとへるものもなく心地がすがすがしい。興はまだつづいて、午前十一時頃まで作つたもの、昨夜百二十首の余。/そのうち百ばかり与謝野氏に送つた。
内田は、この高揚した気分と、そこからの全的な解放感とは、啄木の「病跡学的=創造的心境」とを示しているとします。
注2:この事実証明に必要な、平出・啄木の関係を示す「書簡・日記」等が、不自然なまでに「自己規制」されているようです。
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